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最先端の哲学 No7

精神的活動(始め、途中、終わり)の「途中」(精神交互作用)について述べますと、たとえば「真夜中に真っ暗な一軒屋に何らかの理由で入らなければならないとすると、その家の内部が全くわからないので、理性が合理的な判断をすることができず後退して、その空白に想像力の拡大、膨張が起こって、なにかに躓いて怪我をするのでは?

気味の悪い動物がいるのでは?幽霊がいるのでは?

などと想像力が悪い方向へ急激にふくらみます。

これが想像力の拡大(疑心暗鬼)です。

ここで一っの関係がわかります。

「よくわからない」⇒「想像力の拡大」という関係です。

次に幾何級数にマイナスの想像力が拡大すると、強い不安(二次的ストレス)が生じます。

なぜならその人が認める価値の未来の結果を予測しているからです。

どうなるかわからない(時間の経過による未来の結果がわからない。)という不安定な立場に立たされるから、強い不安(二次的ストレス)が発生するのです。

というわけで精神的活動(始め、途中、終わり)の「途中」の中身は次の関係になります。

「よくわからない」⇒「マイナスの想像力の拡大」⇒「2次的ストレス(強い不安)」

ここで「2次的ストレス(強い不安)」軽減する方法があります。

これはその人の未来が「よくわからない」から「二次的ストレス(強い不安)」が起こるのだから、その「よくわからない」を理解すれば理性が働いてマイナスの想像力の拡大の歯止めになって、以下のようになります。

「よくわからないの理解」⇒「単なるマイナスの想像力」⇒「単なる不安」

つまり「拡大」と「強く」がなくなって、その分だけ軽減されています。

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最先端の哲学 No6

精神的活動(始め、途中、終わり)の終わりとは未来の結果のことです。

その人の未来における価値の結果が判明することです。

もちろん未来の結果が良ければその人は満足し、悪ければ不満足になりショックを受けるでしょう。

このショックから来るダメージを「3次的ストレス」としますと、「終わり」の前の「途中」では当然この3次的ストレスは発生していません。

まだ未来の結果という時間が来ていないからです。

ですから「途中」においては、まだ未来の結果は「よくわかりません。」

「よくわからない」から、そこに疑心暗鬼が生じて「もしかすると未来の結果が悪いのでは」というマイナスの想像力が膨れ上がり、精神交互作用によって「強い不安」が発生します。

つまり未来の結果を予測(悪い方に)するのです。

この強い不安を「2次的ストレス」と呼びますと、「途中」では「2次的ストレス」というつよい不安が起こっており「終わり」では「3次的ストレス」という強い感情が発生するかも知れません。

例えば今から1ヵ月後に試験があるとします。

試験の具体的な情報が入ってきた時点(もしくは試験を意識した時点から)いわゆる「途中」が始まって、それは試験当日まで続きます。

この間は未来の結果(試験の結果)はまだわからないので3次的ダメージは存在しません。

その代わり「よくわからない」未来の結果を予測するので疑心暗鬼になって、マイナスの想像力を拡大させるので

強い不安(2次的ストレス)が発生します。

そしてそれは精神交互作用によって、足し算ではなく乗数倍に強くなります;

時間が経過して試験(未来の結果)の発表が行われると良いか悪いかが判明して、悪ければショックを受けて「3次的ストレス」という感情が生じます。

このプロセスは「過去の記憶を呼び起こすことによって現時点では存在しない未来を、自分に説明している事を表しています。

どのように説明されるのかというと、2次的ストレスを感じることによって、未来の結果(試験の結果)が悪かった時にこうむるかもしれない3次的ストレスを自分に説明(体験)させているのです。

ゆえに2次的ストレスを体験すると言うことは、3次的ストレスの一足早い疑似体験と言えるのではないでしょうか?

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最先端の哲学 No5

精神的活動(始め、途中、終わり)の途中とはどういうものかというと、精神活動によって強い不安(ストレス)が発生する場所です。

この「途中」を説明するのが「精神交互作用」という考え方です。(これは森田理論からのパクリです)

「精神交互作用」とは体からある感覚(たとえば痛み)が生じて、すれが脳へフィードバックされると脳はその部分へ注意を向けます。

するともっと強い感覚(痛み)が生じてそれが脳へ行き、再び強い注意が向けられますと、さらに強い感覚が生じるというものです・

このようにして強い不安(ストレス)が形成されるというのが「精神交互作用」です。

けれどもこの増加(感覚の強さの増加)は何だか足し算のような感じがしてなりません。

果たしてこの足し算で「強い不安(強いストレス)」が出来上がるでしょうか?

ちよっと力不足のように思います。

そこで登場するのが「よこわからない」という概念です。

たとえばあるホテルの部屋に入ったら、そこの見知らぬカバンがあって中から時計の音が聞こえてきたとしよう。

この時カバンの中の正確な情報が「よくわからない」から、疑心暗鬼になって「強い不安」が足し算でなく、乗数倍に急激にふくれあがるでしょう。

このように不安というものは、自分が非常に関心のある対象が「よくわからない」時に強く発生するのです。

これは想像力が急速に膨張することに(疑心暗鬼)になるからです。

ここで大事なのは今自分は現在にいるから、関心のある対象とは必ず未来に存在するはずです。

そしてその未来までの時間が経過すると、未来の結果が判明するのです。

ですからすべてのあなたの考えは、未来の事柄なのです。

もしあなたが過去の事柄を考えていたとしても、未来つまり「過去という未来」を考えているのです。

 

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最先端の哲学 No4

このブログの最初のほうで、我々の精神活動は常に現在で行われ、それを分解すると「はじめ、途中、終わり」になると書きました。

これらを使って一種の「心理的モデル」を作ろうというものです。

まず「始め」の部分ですが、「ジエームス、ランゲの仮説」というのがあります。

これにはいろいろな考え方があるみたいですが、一番わかりやすい表現が「人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのである。」というものです。

一般的には頭が悲しいと考えるから、目に涙が溢れてくる(泣く)と思うのですが、その逆なのです。

要するに、泣く(涙が流れる)から頭のほうで悲しくなるのです。

すなわち外から入ってきた情報が、まず最初に目の涙腺を刺激して涙を流させて、この涙が流れたという情報(電気信号)が脳のほうへフィードバックされて、脳の中枢ではじめて「これは悲しいことなのだ」と認識するのです。

ここで初めて脳は事態をようやく理解するのであり、目の涙腺で涙が流れた時点から脳がそれを理解するまでの間は完全につんぼんぼ桟敷に置かれていたということになります。

この空白の時間を「タイムラグ」とすると、とても脳が神経網を使って体を支配しているとは言えないと思います。

これらのことが事実だとすると、脳は「タイムラグ」があつてはじめて状況を理解するというよりさせられているのです。

以上が我々の精神活動の「始まり」なのです。

 

 

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「時間とは何か?」と問われても返答することは不可能ですが、もしその答えが存在するなら無茶苦茶難しいということだけはわかります。

カントという偉い哲学者の「時間論」を読んでも感じることですが。(というか眺めていると表現した方がピッタリきますが)

「時間とは何か」すなわち「○○は何か」という思考スタイル自体が何のいみがあるのか、とさえ思えてきます。

これ以上は殴られそうですからやめますが、それではシンプルに行きたいとおもいます。

「変化する二っの物体(物質)があるとき、そのどちらか一方が時間になります。」

たとえばここに花子さんと太郎さんがいたとします。(この出だしも古いスタイルですけど)

花子さんが食事をする間に、太郎さんはA地点からB地点へ歩いていったとします。

ということは花子さんが二回食事をすれば、太郎さんはB地点からA地点へ戻ってきて往復することになります。

つまり花子さんが二回食事をとると太郎さんがA地点とB地点を往復したとわかります。(食事が時間)

逆に太郎さんがA地点からB地点にいって、またA地点にもどってくると、花子さんが

食事を二回食事を二回したことがわかります。(往復が時間)

食事をする花子さんも、歩く太郎さんも「変化する物体(物質)」になるのです。

信じるか、信じないかはあな次第です。

最先端の哲学

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最先端の哲学  № 2

今までに哲学の本は何冊か読みましたが、内容の理解はともかくよくもこんな難解な文章を何百ページも書けるものだという妙な驚きを覚えました。

そんなわけで哲学には詳しくないのですが、詳しくないなりに「史上最強の哲学者は誰か?」と聞かれれば(誰もそんなこと聞かないと思いますが)それはデカルトというフランスの哲学者です。

そのデカルトが言った言葉に「我思う、 ゆえに我あり」というのがあります。

この言葉こそ、まるで日本刀の切れ味を彷彿とさせるような鋭さを持っています。

この言葉以外のそれは青龍刀かサーベルのようなものです。

なぜ凄いかというと、人間は同時に二っのことを行うことは不可能です。

同時にというのはまったく同じ瞬間にという意味で、同時に二っのことを行っているように見えるのは、そこに時間差があるからです。

ちょっと脱線しましたが、「我思う」をまったく同じ瞬間に(同じ時間に)、同じ「我」が否定することは不可能であるから、「我あり」となるのです。

つまり否定することが不可能であればイクオール「存在する」となってもOKなのです。

ちょっとわかりにくかったと思いますが、哲学には時間を導入するこたが必要だと思います。

つまり「過去、現在、未来」という関係性で説明しないと、超難解な文章の連続となってしまうからです。

次回は「時間」というものについて述べてみたいと思います。

 

 

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最先端の哲学  № 2

今までに哲学の本は何冊か読みましたが、内容の理解はともかくよくもこんな難解な文章を何百ページも書けるものだという妙な驚きを覚えました。

そんなわけで哲学には詳しくないのですが、詳しくないなりに「史上最強の哲学者は誰か?」と聞かれれば(誰もそんなこと聞かないと思いますが)それはデカルトというフランスの哲学者です。

そのデカルトが言った言葉に「我思う、 ゆえに我あり」というのがあります。

この言葉こそ、まるで日本刀の切れ味を彷彿とさせるような鋭さを持っています。

この言葉以外のそれは青龍刀かサーベルのようなものです。

なぜ凄いかというと、人間は同時に二っのことを行うことは不可能です。

同時にというのはまったく同じ瞬間にという意味で、同時に二っのことを行っているように見えるのは、そこに時間差があるからです。

ちょっと脱線しましたが、「我思う」をまったく同じ瞬間に(同じ時間に)、同じ「我」が否定することは不可能であるから、「我あり」となるのです。

つまり否定することが不可能であればイクオール「存在する」となってもOKなのです。

ちょっとわかりにくかったと思いますが、哲学には時間を導入するこたが必要だと思います。

つまり「過去、現在、未来」という関係性で説明しないと、超難解な文章の連続となってしまうからです。

次回は「時間」というものについて述べてみたいと思います。