■
最先端の哲学 No 12
このブログの最初で、今までの哲学は難解で読みにくいと批判しましたが、さすがに12回までくると「お前の言ってることも同じじゃないか?」という声が聞こえてきそうです。
そうです確かに難解で読みにくいのは否定しません。
けれども唯一点だけ違う部分があります。
それは今までの哲学(心理学をふくむ)が持っている抽象的概念が一切存在しないことです。
すべて日常的な言葉を使っています。
たとえば有名なところでは真、善、美、実存、日本で言えば 絶対矛盾の自己同一、などです。
従って使用している用語も種類が極めて少ないし、日常的に使われる言葉を中心に使っています。
この点だけをとると「読みやすい」と言えるのではないでしょうか?
ついでに大それたことを言うと(この分野は言ったもの勝ちですから)私のこのブログの理論は、将来の宗教統一の時の基本理論となる資格があるということです。
その理由は「抽象的な目的」ではなく「人間の思考活動のプロセス」を論じているからです。
開いた口が塞がらないとはこのことだと思いますが、自然科学の急激な発展と対照的な人文科学(一部分は異なりますが)の停滞を打破するためには、これぐらいのことをぶち上げる必要があるのです。
それともう一っの問題があります。
偶像崇拝という問題です。
我々は日頃神様に拝みますが(信心深いかどうかは別にして)その対象物(偉大な聖人の掛け軸、仏像、十字架)などを通じて神様と対峙しています。
でもこれらは所詮「物」です。
神様 ⇒ 我々(人間) ⇒ 物質
一番偉いのは左側で、一番偉くないのは右側になります。
ということは我々は我々より格下の右端(物質)に頭を下げていることになります。
これが偶像崇拝の問題と思います。
神
人間 物質
上の図からすると、我々は(人間→物質→神)という順序でお祈りしているわけです。
この順序を批判する人たちがいるわけです。
まあ言われてみると、なるほどと思えないこともありません。
本来は「神と人間」という関係であるのが本当だとは思いますが、信心深い人はこれが理想かもしれませんが、そうでない人はこれはちょっと「疲れ」ます。
やはり 人間⇒物質⇒神様というのが気楽でしょう。
ちよっと極論しますと、人間⇒神様というケースでは、その間には何もない(物質は存在しない)ことになります。
物質が存在しないと言うことは、それだけ神様に人間が一歩近ずいたと言えなくもありません。
もしこのような思考傾向が起これば、人間の「物質追及」から「精神性追求」へという流れがはじまるかもしれません。
なぜならこの世の不幸は、人間の飽くなき物質追及からきているからです。