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最先端の哲学 No13

観念論(唯心論)の反対は実在論唯物論)となっています。

左は精神的産物、右は物質のことです。

たとえばここに石があるとすると、その根拠は体中に張り巡らされた神経網の為せるわざです。

その石に当たると痛いという神経的苦痛が、その石が存在しているという絶対的証拠なのです。

このように神経の働きによって環境(物質)を認識しているのです。

普通人間の体以外のすべては環境(物質)と言われていますが、人間の体も物質なのです。

そこで人間と環境という区分けを、脳とそれ以外(人間の体も含む環境)と考えたらどうでしょう。

脳が独立してそれ以外を環境(物質)とすれば、最初の方で説明した「タイムラグ」も起こりません。

なぜなら物質を全部右側に持ってくることによって、シンプルになるからです。

今までの人間と環境という分け方では、人間は体を使って環境の中を自由自在に飛び回ることができます。

そのため体という物質の中にある脳も、いっしょに飛び回ることになります。

この場合の脳というのは「精神」のこととします。

ところが精神とそれ以外(人間の体を含んだ環境)となると、そういうわけにはいきません。

精神は動かないのです。

なぜなら「精神」は物質ではないからです。

極端に言うと、ちようど映画館の座席に座っているようなものです。(笑わないでください。)

我々は自分から動いているのではなく、座席に座ってスクリーンをみているのです。

あまりに突拍子もない展開にあきれて二の句がつけないのではないでしょうか?

実は私自身も次第に不安になってきました。

ところが面白いことに、この映画館については必ず「予告編」というものがあります。

(再び笑わないでください。)

我々はここで未来を知ることができます。

これがよく言われる預言者が行う未来予知に相当すると考えることもできます。

本当に冗談のような話ですが、ガリレオの時代の天動説が現在によみがえって来たのかもしれません。

デスから科学は全部右の部分(物質の部分)の話にすぎなくなるのです。

要するに映画館のスクリーン上にあるのが科学(の発展)になるわけです。

まとめると

精神(非物質)⇒環境(人間の体を含む物質)

               となります。

右側は動きますが、左側はうごきません。

左側は物質ではないからです。

その昔ガリレオは宗教の天動説を批判しました。

その科学によって批判された天動説が、今まさに復活しようとしているのです。

厳密な意味での天動説とは違いますが「動いている」ことは同じです。

ガリレオは地動説の立場から天動説を批判したのですが、この場合はその両方が右側

(スクリーン)に含まれることになります。